僕の読書経験が浅いからかもしれないけど、今まで読んだことの無い感じの本。楽しかったので、パパっと読めてしまいました♪
物語全体を例えて言うなら、"螺旋状の2つの糸が、様々なものを巻き込みながらつながってゆく"みたいな感じかなあ……(読んでいない人にはわからない例えですね 笑)。伏線が伏線を呼ぶ、みたいな。あ、ミステリーじゃありませんよ。
それと、京大に行きたくなりました(笑)。
さて、次はどれを読もうか……。
勢いでつくってしまった・・・・・・
それはひとえに、私たちがテレビで見る彼が、視聴者に愛されていたからではないかなと僕は思う。もしこれがイメージの悪い人だったら、「この変態め!」「露出狂!」などと散々に罵られていたかもしれない……。というか、今の世の中ではそうなること必至だろう。
普段の行いから来るもの、"誠実さ"と言ってもいいかもしれない。それがいざというときに、本当に身を助けるのかもしれないと思った。
で、この事でいつまでも騒ぐ必要は無いと僕も思う。草なぎの復帰を期待します♪
長かったー!これで全体の3分の1です(笑)
内容は、普通に面白かった。作者ダンテが、古代の偉大なラテン詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄を巡っていくうちで見たものを、ダンテが後に思い出して書いた、という形をとったフィクションです。
地獄篇では、現世で罪を犯した者がそれぞれの罪に応じた地獄の階層に落とされている、その階層を下へと巡っていきます。罪が重くなるに従って階層は深くなってゆくのですが、この『神曲』で最も重い罪とされているものは何だと思いますか?
それは「裏切り」でした。裏切りを働いた者は、地獄の最下層──コキュートス──で、涙さえ凍てつく極寒の氷に閉じ込められるという、永劫の呵責に遭うのです……。おそろしやー(笑)
さて、次は何を読もうかなー(他のも溜まってるんです 笑)。
とりあえず神曲は置いておいて、何か他のを多少読み、その後今度は『煉獄篇』にいこうと思います。
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正しさと優しさは、しばしば対立する。
理屈の上で正しいことも、それをぶつければ相手を傷つけるかもしれない。どうしようもないほどまでに、相手を追い詰める可能性もある。果たしてそれは、本当に「正しい」のか……。
逆に、相手を傷つけないようにと優しいことばかりをしていたら、相手は終ぞ自らの間違いや現実に気付けないかもしれない。それは本当の優しさとは言えないのかもしれないね。でも、それでも優しさには違いないはず。
てか、そもそも正しさ・優しさに嘘も本当も無いか。同じものを、前から見るか、横から見るか、くらいの違い。
大切なのは、どういう正しさ、優しさを選択するか、ということだと思う。理屈の上で正しいことは、何も一つではないだろう。優しさも同じ。
矛盾したものたちの中から、何を選び、どう使うか──。
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以前「○型の説明書」って本が流行りましたよね。
あ、↑は「マル・丸」です。「オー」ではありません(笑)
僕は、血液型の違いで「性格が!」「運勢がっ!」「運命がぁっ!」云々ってのは関係無いと思っているので、今まで手にとることはしませんでした。
ですが、今日初めて見てみましたー�
僕はB型(らしい)なのでまずB型のを見ましたが、
「おぅ……まあ当たってるんじゃね?」
って感じでした。世間でよく言われるB型の特徴が羅列されていましたね。
で、次にAB型のを見ました。何故かこれも、
「あー、当たってるかも……」
って感じでした。
これは、と思ってA型のも見ました。これも、
「うん、当たってるじゃん、これ……」
って感じでした。
ここまで来たらO型のも見ました。これも、
「oh...Yes....」
って感じでした。
でもよくよく考えたら、あれだけ項目があるんですから、当たらない方がおかしいんです。
更に、羅列された項目の内容も、皆に当てはまっておかしくないものが殆どですし。
誰にでも当てはまるような曖昧で一般的な記述項目を提示されると、あたかもそれが自分に固有の正しい性質であるかのように錯覚してしまうことを、心理学の現象で「バーナム効果」と言います。
例えば、
「あなたは、普段は気心知れた友達と喋ったりするのは楽しいが、一人になると、ふと寂しい気持ちになったりすることもある」
等は、当てはまる人が大多数でしょう。(うまい例じゃないかも…)
占いなんかは、これをもっと応用して使っているものも多いように思います。
で、「○型の説明書」も、この一種って感じなんじゃないかなーと思いました。バーナム効果とショットガンニング(※)に近いものの合わせ技というか……。
だから、やっぱりこの手の血液型系は好きになれません…。所詮は擬似科学で心理トリック的なものですし。
でも血液型ってめっちゃ無難な話題だから、使ってしまうこともあるけれど……(笑)
※ショットガンニング
→手当たり次第に質問・情報をぶつけておき、その中のいくつかが事実であれば、「的中した」と言って相手を信用させる会話手法の一つ。
『神曲 地獄篇』を読んでいますが、これがなかなか面白いです。ウェルギリウスがかっちょいい!(笑)
読んでるのは河出文庫から出ている平川訳なのですが、内容自体の面白さもさることながら、訳者の流麗な日本語も美しいです。また、ギュスターヴ・ドレの少しおどろおどろしい挿画もいいですね。訳注が歌(<1つのまとまりです)ごとにあるので、予備知識が無くとも何とかついていけます。
一冊がちょっと分厚い上、地獄篇、煉獄篇、天国篇と3部に分かれている作品なので根気は必要かもしれませんが(笑)、ぜひどうぞー。
そういえば今日は10日ですか……。だから何だ、って話だけど。
そもそも人間は、誰しも自らの幸福を願い、それを得ようとするのが自然だと思います。しかし皆が自分の利益を求めて行動していたのでは、嫌がる人、涙を流す人が出てくるでしょう。そこで、「思いやり」だとか「優しさ」「配慮」といった人の為になるもの、一種自らの利益に逆行するものが(基本的には)必要になります。ありがちな例で言えば、皆の嫌がる役を進んで引き受ける、とか。
僕はそこに、表面化されない、内包されたエゴイズムがあるのではと感じました。自らの「優しさ」を相手に与えることで、どこか自分への見返りを要求する心があるのでは、と。
何が言いたかったかと言うと、表面的なエゴイズムを否定しておきながら、そんな自らの内包されたエゴイズムには気付かない or 気付かないフリをし、"相手のため"と誤魔化すのは、卑怯な気がしたのです。これは自分自身にも当てはまりますね……。
勿論、自分を利する目的を含んで行動するのは自然だと思いますし、ある程度は必要でしょう。意図していなくとも、結果的に自分のためにやっていたということもあるでしょう。卑怯だと思ったのは、自らを利する目的を持っているにも関わらず、それを認めない(気付かない)で自分は純潔だ、コレは相手の為だ、と主張し誤魔化すことです。だから、最初に戻りますが、エゴイズムを否定するくらいならいっそのこと開き直って、「俺はエゴイストだ!!」くらいでいいんじゃないかなー、と。
世の中には本当に優しい人もいるでしょうが、そんな真人間になりきれる自信は、僕は正直ありません。まあ、そのエゴイスティックな部分も合わせて、「優しさ」なのかもしれませんが。自らを取り繕う卑怯さよりは、開き直りの方がマシなんじゃないかなってことですね…(笑)。強い自戒も込めて書きました。
と考えてたら、じゃあ自分のこの後悔とかって、なんなんだろうと疑問が生じた。「〜していれば…」なんてものは、所詮は過去であり、自らの予想にすぎない。何か判断の軸があったからこそ、そういったものが生まれたのだろうが、その軸がぶれてきた今、いろんなことが無意味な、空虚なことに思えてしまいます。何をしてもつまらないというか、満たされないというか……。今までのうだうだとは、また違う種類のものですね。
……なんか、青年期の悩みって感じですね。自分で言うのもなんですが。mixiにも書いたけど、「わくわく」が足りないんだな(笑)。果たして打開できるかしら……。
昨日までは元気に(元気過ぎるくらいに 笑)回し車を走っていたので、本当に突然の出来事にびっくりです。「死」って唐突なものなんだな、とリアルに感じました。目の前にいきなり現れ、通ることの出来ない檻を作ってしまう……。人間も、いつも通りの明日が来るとは限らないんだろうな……。
ところで今日、メールアドレスを変更しました。万が一変更の知らせが届いていない方がいらっしゃったら、申し訳ありませんが、右のプロフィールのE-mailから連絡下さい。